人それぞれ、勉強法は違って当然と思う。本来、勉強とは母親の胎内にいる時までさかのぼることはないとしても、生まれてから人生終わるまで続くものだと思っている。受動的であれ能動的であれだ。
竹の節のように人生にもちゃんと発育段階の印があるようだ。与えられた性格をもとにして途中でアレンジしながら人生航路を進んで行く。旅の途中で、航路を見失うこともあるし、一気に邁進することもある。小さな目的を果たすには、自己満足して、次へのエネルギーにする。人生となれば、相当の時間を要する。短くも長くも生きることができる。
さて勉強とはわからないことを繙くための便利なツールであると思っているのは私だけだろうか?苦楽という言葉がある。苦の後に楽と書き、順序でいえば苦しみの次に楽がやって来ることになっている。決して苦しみばかり続くものではないということだ。逆に楽が先にきてもずーっと楽が続くものでもないのが現実である。 誰しもがこの世に出現した以上、存在する価値を持ち合わせていると思っている。そのことを自覚し、探し求めて自分の人生に活かせればこの上ない喜びだ。誰だって好き嫌いはある。得意と不得意があるものだ。一人だけ、万能ということはない。万能と見えるのは他からであって、自己の位置から言えば、多くの苦手を努力という行為で克服しているということに他ならない。勉強がとかく特殊で特別視されるのは、人間社会という集団が構成され、その中で一定の規律を保たないと成り立たないということもあろうが、結果的に競争がつきものとなり、何事にも比較がついて回る。
個の速度には合わせられないところから、さまざまな矛盾の中で生きていかなければいけなくなっている。競争を勝ち抜くために勉強が必要と錯覚される。個々の速度に合わせてわからなくてもゆとりをもち、なぜ、どうして、ああそうか・・・、わかりやすく解説してくれる師匠、辛抱強く付き合ってくれる師匠が存在する社会構造がないものか。わからないことをわかるために本来、勉強があるのに、勉強はマイナーになってしまう。個を追い立て、束縛し、嫌われる存在にされがちだ。時があれば実に自由を作り出す、最高のツールだ。だってちょっとの辛抱で、辛抱が苦であればその後の楽、すなわち、自由を得ることができると思えば、簡単に辛抱出来るものだ。
短期間でクリアーできるものから長い期間を要するものまで様々であるが、好きと思っている事ならいっそう辛抱もできるもんだ。目的意識が高ければ、余計な嫌気がさすのも軽く、結構いけるものだ。
自分だけかもしれないが、周囲からの拘束が発生する状況では、やる気が削がれ、本気で頑張ることができない性分であるようだ。本来、勉強、大好き人間なのである。学校教育をうけている時期より試験もない社会人になってからの方が余程、勉強していような気がする。ただし、本意ではないが小学校、中学校と義務教育、それ以前の家庭教育を受けていたことには常々感謝している。そのお陰で、勉強好きになったのだから。仕方なく流れに乗ったのも、まんざらでもないことになる。
先ほど目的意識と書いたが、自分の場合、自分に与えられた能力を考える前に、母親が原爆病からくる病状を抱えながら女手一つで書道塾を営みつつ、頑張っている姿を見て、医者になり、自分の手で直したいという思いからで、意志としてはかなり硬固なものであった。そうは言っても時折、学校の勉強に疑問を抱いて、未解決な事を残しながら流れのままで妥協している自分を認める。
現在、人医でこそないが、獣医師として日々、動物達の病と戦う仕事を生業としている。職業柄、勉強は不安を取り除き、心持ちの自由度を拡大してくれる最高のツールになっている。私がいう勉強は職業の中のこととか、遊びの中のこととかといった分け方はしないのである。世間でいう趣味として畑作業、お絵かき、音楽ではギター、料理・・・、すべてがミックスして進行している。あれもこれも手を出しすぎと思ってないのがちょっと変わりものなのかもしれないが、意外とへこたれず遂行するようだ。
例えば、畑作業で、種や苗を蒔いたり、植えたりする前に、土作りとなるが、鍬で耕す間に土の酸性度、植物の三大栄養素、窒素、燐酸、カリと頭に浮かぶと、動物の体の電解質のことを重ねてしまう。
先ずは想像するのである。双方に共通性を探すのだ。しかし、畑の手引き書だけを見て勉強はしないようだ。貧弱な知識をもとにだ。一方、診療で血液検査の所見から患者の病状を推察するとする。専門書なる解説書をそばに置いて、貧弱な知識をもとに先ず想像するのだ。頭の中に存在する畑の知識の箱と医学の箱をミックスさせはじめる。要するに生き物はほとんど水でできているんだからと、自分を納得させる。
好きな映画音楽をギターで奏でるのが趣味であるが、楽譜の五線譜にあるおたまじゃくしの配列が動物の心臓の鼓動の変化を記録する心電図の波形と重なり、なぜかお互いが強化し合うという発想を持つのだろうか、ギターを弾く時には心電図が出てくるのだ。共通性を見つけるというが実はそのものを直視できない癖のようだ。 ギターの時は心電図、心電図の時はギター、いつもそのものから逃げまくりだ。だけど、諦めない。しつこい性格がある。続けてるうちに何かしらヒントを掴む。そんな記載がないかと成書をひもとく。初めからそうすればいいのに。説明書なり、地図などあまり重要視していないようだ。だから上達には程遠い。
そう、もうかれこれ二十五年前になるか、当時の勤務医であったAと丸二年かけて作った丸太小屋、一枚の自分がイメージして描いた絵を元に二人の個性から生まれる想像力で作り始めたのだ。特別の設計図もないままに。条件は決して簡単ではなかった。山林を六○○坪余り、開墾して斜面に長さ四メートルで直径十五センチメートルの間伐材を三角形の形に組む事にした。
まず、土台作りだ。斜面に四本の支柱を埋め込み、その上にタルキを組み床を作らないといけない。水平を出すのに苦労する事になる。知恵を絞り、病院から透明な長いチューブを持ってきて、やかんから水を注ぎ、十六点支柱にマジックで印を付け、チェーンソーでカットした。水平面が確保でき床ができた時には感動した。
何々の作り方とか、マニュアルとかがどうも嫌いな性格だ。無駄と遠回りは承知である。どうやらこの御仁は寄り道をしながら物事を完遂する様だ。長年、所謂、失敗を繰り返しながら、本業や趣味に至るまで自分の癖は存在する様だ。ようやく到達したとは言えないにしても、最近は面倒くさがらず手引書を繙きだした。そうすれば、確かにストレートに目的地にいける。余分な空想をすることもない。自分の場合、それを楽しんでいるようだから、どうも過去の無駄とも思えた副産物にうまく溶け込んだようだ。程よく交じり合って、中々、心地よい。
毎日早朝、周辺にある画材で、目にとび込んでくるものをスケッチするのである。何年もイメージだけで、三分以内に描きあげていた。実に雑なもので決して満足しているわけでない。しかし、三分間は雑念なく集中するので、頭の中がクリアーになる。それが快感なのだ。ところが最近、三十分、四十五分・・・、一時間近く、自由空間を生み出せるようになったので、時折、手引書なるものを見て練習とやらをし始めている。
本業でも成書にある図を写したり、手術術式の手順を模写したりで、本業に活かされ始めている。共通性とやらである。
病院の経営もうちの場合、スタッフが多いので組織化が必要だ。その時、体の仕組みのことを考える。置き換えるのだ。両方とも自分にとって必要な事なので、共通性を見つけているようだ。現在の世の中の紛争を理解するのに聖書時代のキリスト教とイスラムの争いを引き合いに出すのだ。原点はそこにありだ。私の頭はハチャメチャか、だけど、無駄はないのである。
ありとあらゆる分野に首を突っ込むようだ。各分野すべてに興味を持つようだ。野菜作りが進化して、作ったものを食べるようになった。そして、料理につながる。盛り付けるお皿まで及ぶ。こんどは陶芸?興味が行動に変わる。自分は魯山人かと勝手に盛り上げる。気分はどんどん幼児化している。老いて益々だ。気持ちは完全に青年だ。学ぶ事は実に素敵だ。試験をするのはもう自分だけだから。取得すれば達成感なるものが得られる。一杯のビールが旨い。一本の煙草、一杯のコーヒーが旨い。何か必ず御褒美を求めるのである。確かに途中で顎を出す場面がある。それらのものが目的を果たさせてくれる原動力になっているに違いない。マラソンの中継地での給水のようなものだ。
めずらしく畑の収穫物のナスをつかって料理だ。レシピを参照しての料理である。先ず、お絵かきが好きなもんだから、そのレシピを理解する為に描きはじめた。その作品だ。
順番通りに、進めばいい。今までは適当に炒めるだけ。今度は指針がある。実際、迷いなく進めるので楽だ。いきなりオリジナルのものをねらう性格がちょっと問題。謙虚さがないんだな。無難な生き方を何故しないの。ところが、それなりに出来上がれば、有頂天になり、家族にも職員にも自慢をする。料理は科学だ。ちょっとオーバーに表現する。
「美味いじゃろう」
「うん、ウマイ」
というものなら、得意げに語りはじめるから始末が悪い。
診療の合間に外科手術の成書にある術式(料理のレシピに相当)をスケッチし始めている。描くことが好きだから。それと不謹慎だが趣味と実益を兼ねていると勝手に自分を納得させている。こればかりはいい加減に誤魔化せない。細い血管一本くらいではすまない。きちんと認識しなければ現場で役に立たなくなる。これがまたいいのである。逃げまくり人間には、いい修行である。
人間、楽ばかり選んでいては後がしんどくなる事は長年生きてきて、嫌という程、経験しているから。修行は必要だ。それに普段描く絵も少しは上達するのではと欲望にかられるようだ。また、共通性を見つけ、逃げ道をつくるのだ。逃げ道といってマイナスのことのような言葉を使っているが、遊びの部分、ちょっとしたゆとりとでも言おうか。実に屁理屈ジジイだな。自分の場合、どんなへたくそな絵も捨てない。足跡を残すのだ。
五月から十月までに描いた日常のスケッチは既に七百枚にも及ぶ。すごいと自分で驚き、何度もめくって眺めては満足するのが心地いいようだ。まあ、お気に入りは数えるくらいしかないのは当然だが・・・。
私の周辺に副産物が月日とともにうず高くたまるのである。
これからの人生、おおいに学んで、おおいに楽しみながら、心持よく日々を大切に生きたい。
人間形成が残された課題だ。周辺に積みあがった副産
物の整理が始まったようだ。勉強は己を磨くためにあるの
だ。生涯、謙虚に生きることは学ぶことを継続することだ。
教科書は全ての取り囲む環境、人、自然… … 。
だから、感謝なんだ
平成二十九年七月二十六日
平野 健