小さな手鏡
am5:00〜になると小さな鏡に映る顔を衝動で描いていた時期があった。かつてNHKの人間講座で「自画像を描くまなざし」という番組が放送された。各放送には、それぞれ興味深い副題がつけられていたように記憶している。
もう数十年になるだろうか。NHKのアーカイブスを確認してみると、いくつかのタイトルを見つけた。
「自画像を描くまなざし:青木繁”仮像”社会へのあこがれ」
「自画像を描くまなざし:萬鉄五郎 自己探求の道」
「自画像を描くまなざし:岸田劉生”自己”の強行」
「自画像を描くまなざし:村山槐多 爆発する自我」
「自画像を描くまなざし:松本竣介村山槐多 時代の中の孤独」
そうそうたる顔ぶれの画家たちが、一様に自我を問題にしている。自分の顔というものはまぎれもなく、社会あるいは時代との接点であり、そうであるがゆえに自己を強行する必要が生じ、爆発する自我をもてあますようにもなる。場合によっては、どこまでも自分というものを探求しつづけなければならないだろう。もし、社会あるいは時代に適応を欠いていると感じれば、社会を仮像と断言した上で、あこがれの念を抱くことになるかもしれない。また、時代への適応を放置したことによって、孤独を最大限に増幅させることもあるにちがいない。
私の自画像もまた、自我と無縁ではない。だからこそ、私の顔は入り口だろうか、門だろうか、社会に向けた看板だろうか…と悩むのである。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。多くは私は困ったときに自画像を描く癖があるようだ。
なにやら、鎌倉時代の古典「歎異抄」の一説を書き写しながら、こころを落ちつかせている?
自信持って描いたつもりだが?
何を太々しい顔してるの?もう済んだことは消し去れよ。表情が落ち着くのにはもう少し、あと?
いいこころ持ちで常々、いないとね。鏡は教えてくれる。他人は教えてくれないよ。なにもいわずに去ってしまうだけ。相手の不快な顔を見たら、こっそり手鏡で自分の顔をみてごらん。自分が不快な顔🥸してるのに気付くはず。
半分、悩んでいる?
T&K. 至福の時、あれから50年、
こうありたい。難しい顔🥸はやめて、いいこころ持ちといいことばで自ずといい顔。
体とこころの健康に努めるべし。
ナニ、ふくれてるの?
小さな鏡におさまったつもり。
東京から、久しぶりの再会。中学の同級生。
太め縁の眼鏡で誤魔化してみた。
格好つけてみた。
労働の喜び
穏やかに、もの思いにふける
労働の汗はいいもんだ!!
困った困った困った!!…
え〜 ケセラ・セラで行こうよ。そんなに自分をいじめないの。
2021.2
主様どこへ行く?
あれから一年、似非、山頭火?
動物先生やってる!
2022.1.1
初夢「憧れ」
そうねぇ。今でも時々、小さな鏡の中の自分を描いてます。さてと、
色を重ねるたびにおかしくなる。お疲れ様です。顔って、入り口?門?看板?願望として、年を重ねる度に穏やかな素敵な皺を重ねたい。
令和4年2月15日 記