Something

Takeshi Hirano

島の予防注射

毎年、四月から狂犬病の集合予防注射がおこなわれる。当支部では島しょ部の一部も担当になっている。開業者の私たちが毎年、担当箇所を輪番で廻る。今年は私が江田島市(数年前、江田島町、能美町、沖美町が合併して江田島市になった)の能美町を担当することになった。六月始めのある日、宇品港から午前八時過ぎのフェリーに乗って、三高港に向かった。所要時間は約三○分、車の窓を開けると朝の冷たい潮風が頬を撫でる。普段は決して味わうことのできない心地よい瞬間だ。日常を逃れ、別の空間に漂う。不謹慎を承知で本音を言えば、ちょっとした旅行気分である。

 瀬戸内海に浮かぶ大小の小島、行き交う船舶、群青の空、流れる雲、小波に揺れる赤い灯台。さっそく、スケッチブックを鞄から取り出して、手早く筆を走らせる。

 ところで島には動物病院がない。島の人たちにとっては、年に一回の集合注射が頼みだ。狂犬病は恐ろしい病気で、ひとたび狂犬病に罹った犬に咬まれてしまえば、まずは100%死亡する。人畜共通伝染病の代表格である。狂犬病予防法で予防注射をするのは犬を飼う人の義務とされており、近年ではほとんどの犬が接種を受けている。陸地部に限って言えば、私が開業した四十年程前とは違い、この頃はどこの地域にも動物病院がある。飼い主さんは愛犬が不調になれば気軽に診察を受けることができるようになった。狂犬病の予防接種もそうした近所の動物病院で受ける人が増えている。そのため、集合注射への参加者はかつてに比べるとずいぶん減ってきている。とは言え、無医地区の山間部や島しょ部の飼主さんにとっては、前述のように獣医師が出かけて行く集合注射が頼りである。
 狂犬病に関しては、現在、日本において半世紀あまり発生を見ていない。これも狂犬病予防法に基づいて、国、県、市町村の行政機関および直接、予防接種を実施する獣医師を統べる獣医師会の努力の賜物だと言える。今では、狂犬病を経験している獣医師はほとんどいなくなっており、病気の発生がないという現実も手伝って、怖さの実感が薄れてきているのもやむを得ないところがある。世間では発生もないのに予防注射をする必要があるのかというとんでもない意見なども出てくる。狂犬病の予防そのものが風化傾向にあるのは悲しい現実である。
 しかし近年、鳥インフルエンザ、BSE(狂牛病)や、宮崎県で発生した口蹄疫等で日本国中が感染症に対して敏感になってきた。報道機関が積極的に啓発しているだけでなく、行政関係機関においては、今度、発生する可能性があるのは狂犬病だと危機感を募らせている。なんと言っても、一旦、発生してしまえば、これ程怖い病気はないのだから、広島県でも行政機関と獣医師会が一体となって、勉強会が開催されるようになった。私たちのように、直接、飼い主との接点を担うものとしては、今後も引き続き、積極的に啓発していくのが大事な任務であることを痛感している。

 汽笛が鳴り、場内アナウンスが流れてきた。どうやら、高田港に着いたようだ。町の職員方と交わした待ち合わせ時間まであと三○分ばかりある。
 港についてすぐ目に入ったのがベルトコンベアに運ばれて陸揚げされている無数の牡蠣だ。ふと、海の方に目を向けると、牡蠣船が見えた。普段、見慣れていないせいで、私には不思議な光景に映った。

 スケッチを始めた。ちょうど書き終わった頃合いに、町の職員が二名やってきた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 互いに挨拶を交わし、集合注射の開催場所へと向かう。前日、雲行きが怪しかったため、天候を心配していたのだが運よく好天になり、胸をなでおろした。雨が降る日の予防接種は、会場が野外の場合もあったりして、気をつかうことも多く、いっそう大変なのである。
 最初の会場まで、町の職員方の車のあとに続いて会場へと向かった。予定時間の一五分前に会場に到着したが、すでに五、六頭が列をつくっている。すばやく白衣をはおり、ワゴン車の後部に、今日のために看護師たちが用意してくれた器具を段取りのいいように配置する。町の職員方は会計業務と台帳記載等をこなしてくれる。机を並べ椅子を整えると準備完了だ。

 陸地部での予防接種のように、一箇所に百頭近くが集まるということはまずない。多くてもせいぜい二○頭くらいだ。注射も比較的、ゆとりをもっておこなえる。せかせかする必要はない。空気は美味しいし、潮風が鼻をくすぐる。なんとなく心持ちが穏やかになり、上機嫌になる。そうなると、患者(飼い犬)に語りかけたりする余裕が出てくる。島の飼い主さんの義務感は強く、定刻になると会場にぞくぞくと集まってくる。開始から一○分も経ないうちに予定頭数をおおかた終えることができた。
 ふと、顔を上げると、かなり年配のおばあさんが乳母車を押しながら、犬を連れてきているのが見えた。その犬もかなりの老犬である。おばあさんの足取りがおぼつかないのを見て、町の職員のひとりが駆け寄り、一緒に乳母車を押しながらこっちに向かってきた。犬も心配そうにおばあさんを見上げ、「おばあちゃん、大丈夫?」と、言っているように思えた。「犬の調子はどうですか?」と、尋ねると、おばあさんは、意外としっかりした声で「ここに来る前にもどして、下痢もした」と応えた。具合が悪いと、接種はできない。町の職員の方と相談して、結局、その日は中止することにした。「元気になったら、家族の方に協力してもらって、呉の動物病院に行って注射を受けてくださいね」

 義務を果たそうと一生懸命やって来てくれたのに、おばさんにとっては無駄骨になった。それほど島の人たちは純情で責任感が強いということかと感動を覚えた。

午後からの注射会場は遠いため、そちらの開始時間の二時前に午前の注射を終えるよう予定が組まれている。何年もこの集合予防接種に参加しているが、その都度、無事に終えるとほっとする。

 会合等でその話をすると、他の獣医師も同様のことを口にする。屋外での注射は獣医師にとって、けっこうプレッシャーがかかるものだ。もしも、接種に伴う事故が起きたらどうしようと、常に不安を抱きながらおこなっている。

 そういった神経の疲れを癒すためにも、昼食を取りながらの三、四○分の休憩はありがたい。午前中の緊張を解きほぐしてくれるからだ。町の職員方と次の会場(江田島市役所、元能美町役場)を確認して、昼食に向かった。

島の海岸線に沿って大柿町方面に車を走らせていると、手打ち蕎麦屋の大きな看板を見つけたので暖簾をくぐった。聞けば、この場所に開店して間もないという。カウンター席に座り、注文を終えて、しばらく外の景色を眺めているうちに絵を描きたくなった。急いで鞄からスケッチブックを取り出して、目の前の風景を写し取る。食事が運ばれるまでの合間に一枚描くことができた。

 絵を描いていると、たった数分の時間が無限にも等しくなる。景色と自分、二人だけの会話だ。
「お客さん、絵描きさん?」
背中越しに声がして、思わず我に帰る。
「うーん」
と、生返事をして適当にごまかし、運ばれてきた料理をゆっくりと味わいながら食べた。

 精算するとき、店の人に、
「今度はどちらで絵を描くのですか?」
と、尋ねられた。また、適当に「その先で」と応える自分がいる。画家の気分を楽しんでいるのだ。

 店を後にして、しばらく車を走らせたが、まだ少し時間があるので、海岸線の広い駐車場で休憩することにした。
 防波堤の向こう側に牡蠣筏が、整然と並べられ、ゆっくりと漂っている。少し眺めて、また絵を描くことにした。

店を後にして、しばらく車を走らせたが、まだ少し時間があるので、海岸線の広い駐車場で休憩することにした。防波堤の向こう側に牡蠣筏が、整然と並べられ、ゆっくりと漂っている。少し眺めて、また絵を描くことにした。
「ご苦労さまでした。また、来年もよろしく」
町の職員方に別れを告げ、三高港に向かった。道すがら、景色のいい場所を見つけた。
「少し、休もうか…」
 近くの防波堤に腰を下ろして、ぼんやりと海を眺めた。潮風が頬にあたって心地いい。ようやく長い一日が終わろうとしている。「ふーっ」と小さく息を吐いて見上げた空はどこまでも青かった。なんだかドラマの主人公になった気がして苦笑した。

【キーワード一口雑学】
1.狂犬病ワクチン
狂犬病は、犬、ヒトその他のほ乳類、コウモリ等が感染し、長い潜伏期と神経症状及び高い死亡率を示す人畜共通伝染病である。わが国では長年の努力により清浄化が達成されているが、近年の海外からの犬やペット類の輸入増大により、ワクチンは依然重視されている。現在の組織培養ワクチンはそれまでの脳乳剤ワクチンに比べ安全で免疫持続が長いため、一年一回の注射法が採用されている。

2.狂犬病予防法
昭和二五年に制定。飼い主には犬を飼う場合に生後九一日令から接種しなければいけない。生涯一度の登録及び年一度の注射接種が義務付けられている。

3.集合注射
県から地方獣医師会が狂犬病予防注射の実施の依頼を受け、さらに市町と契約を結んだ上で、地域の開業獣医師が定期的、または必要があれば臨時に注射をおこなう。開業獣医師の診療施設内で行われるのを個人注射と呼ぶ。

平成22年9月1日 平野健