Something

Takeshi Hirano

個人展覧会への誘い(私の日常)

かつてNHKの人間講座で「自画像を描くまなざし」という番組が放送された。各放送には、それぞれ興味深い副題がつけられていたように記憶している。
もう十年になるだろうか。NHKのアーカイブスを確認してみると、いくつかのタイトルを見つけた。

「自画像を描くまなざし:青木繁”仮像”社会へのあこがれ」
「自画像を描くまなざし:萬鉄五郎 自己探求の道」
「自画像を描くまなざし:岸田劉生”自己”の強行」
「自画像を描くまなざし:村山槐多 爆発する自我」
「自画像を描くまなざし:松本介村山槐多 時代の中の孤独」

そうそうたる顔ぶれの画家たちが、一様に自我を問題にしている。自分の顔というものはまぎれもなく、社会あるいは時代との接点であり、そうであるがゆえに自己を強行する必要が生じ、爆発する自我をもてあますようにもなる。場合によっては、どこまでも自分というものを探求しつづけなければならないだろう。もし、社会あるいは時代に適応を欠いていると感じれば、社会を仮像と断言した上で、あこがれの念を抱くことになるかもしれない。また、時代への適応を放置したことによって、孤独を最大限に増幅させることもあるにちがいない。

私の自画像もまた、自我と無縁ではない。だからこそ、私の顔は入り口だろうか、門だろうか、社会に向けた看板だろうか…と悩むのである。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。私は困ったときに自画像を描く。だから、私の描く自画像はいつも困っている…。

困った!! 困った!!

顔って
よく出来ている

顔って
その人に入る玄関だ

眼鏡はよく描く
種類は幾つも変わる。
仕方ない、目が悪くなっているという事。
いや、それだけではないんですよ。
ファッションも一応気にしているようだ。
ところで、色眼鏡で人、物を見んようにと自分への戒めに描いてるんだ。

リストウオッチ-
せかせかと追い立てる時もある。
心臓の鼓動の様に思える時もある。
行動にストップをかけてくれる時もある。
空間を巧みに演出してくれる時もある。
君のせいじゃないよ。君はいつも道しるべ。
私のこころ持ち次第なんだから。

※こころ

こころ ころころ
時計の秒針の動きだ
こころ ころころ
淡々とした時を刻みたいもんだ